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雨音は世界の一番高い場所から

初めて自分のライブ録音を聴いた時、スピーカーから聴こえてきているその声が、普段耳から聞こえている自分の声とあまりにも違っていたので、ショックを受けて、赤面して、もんどりうって、弾けた。
そして、そのスパークは、初めて自分のライブ動画を見た時に頂点に達して。
自分で認識していたパフォーマンスと、画面の中で繰り広げられているソレとがかけ離れ過ぎていて、みっともなくて、滑稽で。
けれど、他者から見えていたのはどうしようもなくこのライブな訳で、そりゃ客はこないし、ノルマは払わなければいけないし、すんません、清算の時に偉そうなことばっかり言って、すんません。
産まれてからこのかた、ずっと鏡を見ながら生きてきた。
自分の顔を認識する方法は基本的に鏡だし、それについて、その鏡に映っている自分の顔について、疑ってみたこともなかった。けれど、よく考えてみると、鏡というのは自分の顔を反転させて映している。
ということは、自分は自分の顔を反転させて認識しているということで、これは考えようによってはかなり危ない。
自己認識と他者からの見え方。
そこの差異に怪物は潜むものだし、それが大きければ大きいほど、まずい。

表現をしていると、自己の内面と向き合う時間が否応なしに増えていく。
というか、向き合わざるを得ない。
どの引き出しを開けるか。
どの部屋に入って、どこを掘り進めるか。
その時に手がかりになるのが、自分の持ち札と、他者からの見え方。
自分の中から発掘してきたものを相手にぶつけて返ってきた反応が、どれだけ予想とずれているか。
その差異がどこに由来しているのか。
自分の根っこ近くにある性質Aが、外に出ていく過程でBと交わりCに変化し、相手が受けとる時には相手の性質Dと融合してEになる。
それがFとして自分に返ってくるとき。
その時にぼくがそれを
 「あぁそうか。このFは俺のAのことか」
と、どれだけ翻訳することができるか。
もしくは理解することができるか。(勿論、Aには環境因子A1と遺伝要素A2が含まれていて、そのA1やA2にもそれぞれA♭やA♯が関わってきているのだけれど、そこまで言い出すと際限がなくなるのでここまで)
 
ぼくが今目指しているのは、それらを全部辿りきった後に一瞬だけ訪れる問答無用の言語化できないアレを、言語として留めること。
それが叶ったときにはえー曲ができるのやけれど、中々に難しい。
多分なんだけれど、感動というものをいくつ見つけてくることができるか、それにつきるのだと思う。
自分のみつけてきた感動をつなぎ合わせて、合わせて、どこの入り口からでも、ゴールである静寂のような場所へ。
その場所が寂静や涅槃、慈悲や愛と呼ばれる場所ならば、ぼくはそれを励みに歩んでゆけるのだけれども。
 
どちらが本当の自分なんだろうか。
鏡を見ているとたまにそのことを思う。
ぼくの場合、顔の左右非対称具合がひどいので、そういう意味でもどちらがより真実の自分に近いのだろうか、と惑うし、前述した、鏡に映っている自分と他者から見えている自分という意味合いに於いても、どちらがより本当の自分なんだろうか、って。
どちらも自分、もしくは、その非対称性を超えていく。
超えた先に癒合した超サイヤ人的な自分。
超人≓仏≓神≓無≓空。
一元論。
ここまできてまた最初に戻って、どちらがより本当の自分なんだろうかって。
陰と陽。
二元論がずっと頭の中で鳴っている。
きっと、「どちらか」ではなく、「どちらも」。
となると多元論。
 
迷いが多いなぁ。
今夜も。

雨音が世界の一番高い場所から落ちてくる。
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  1. 2017/10/15(日) 18:08:18|
  2. 基成ラヂオ
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