小島基成の全てのチューニングをポジティブに

小島基成のブログ。

基成ラジオ 其の四 「活動休止③」

 中学3年の時に夢を見て。
 当時仲の良かったクラスメイト達と、屋上に通じる階段の踊り場で、世界の終わりのカウントダウンをしていた。
 この世界というのは消滅してしまうことがもう決定している。
 ぼくは仲間達と手を繋ぎながら
 「まだ生きてるか」
 「うん。まだ生きてるで」
 「まだ生きてるか」
 「まだ生きてるで」
 「まだ生きてるか」
 「・・・」
 「まだ生きてるか」
 「・・・」
 「・・・」
 「・・・」
 真っ白になって、透明な白になって、けれど音がする。なにか温かい音。
 ゆっくりと意識が覚醒していって、眼を開けるとそこはぼくの部屋で、日差しが温かく差し込んでいて、ぼくは泣いていて、とても綺麗な涙を流していて。
 夢の中で聞こえていた音は、なんのことはない、隣の父の部屋から漏れているテレビの音で。
 
 もう一つ。
 
 あれは確か高校3年だったと思うのだけれど、その時にぼくは、昼休みに教室で、椅子に座り机に寄りかかり、昼寝をしていて。
 夢をみたのか、みていなかったのか。
 今ではうまく思い出すことが出来なく、ただ、記憶は目を覚ました瞬間から始まっていて。
 ぼくは寝ぼけ眼でぼぉーとしていた。
 教室の中ではクラスメイト達が和気藹々と団欒している。
 ぼくはそれを眺めながら、あぁ、卒業したらもうこの場所で、このみんなで、集まることもないんやなぁと。
 それはもう、「絶対にないんやなぁ」と。
 そういえば中学の時もそんなことを考えた気がするなぁ、てか俺ってもう高校3年になってんなぁ、小さい頃は高校生いうたらすんごい大人なイメージあったけど、実際なってみたらそんなにたいしたものじゃないなぁ。20なっても30なってもこういう風に思うんかなぁ。小さいころの俺は、20になることとか想像もできへんかったけど、でも絶対になるんやなぁ。そういうふうに絶対に30になって40になって、いつか絶対に死んで、この世の中から俺っていう存在はなくなって、ここにいるみんなも、おらへんようになって、というか「絶対」におらへんようになることはもう、「絶対」に決まっていて。
 
 ここまできた時にナニカがファーとなって。
 
 え、じゃあこの一瞬ていうのは、この瞬間というのは、ホンマにすごいことなんや。
 と。
 今この時代に、この一瞬に、こうしてみんなが生きているっていうそれは、ホンマにすんごい、奇跡的なことなんや。
 って。
 なんだかそう思うと涙が溢れてきてしまって。
 今、ぼくが生きているこの「いま」というものがすごくすごく愛おしいものになってきて。
 目の前のなんでもない日常が光り輝いてきて。
 もうどうしようもないくらいに温かい気持ちになって。
 自分が生きているというのが、自分達が生きているこの世界というものが、永遠のものではないのだ、ということを強く強く実感して。
 誰もが、産まれては死んでいく。
 どんなものでも、生じては消滅していく。
 生じることと無くなってしまうこと。
 そこに存在する儚さみたいなものに心の中が弾けて、流星群のようにグングンと瞬き、煌めき、流れていって、刹那、自分の属するこの世界というものがとても愛おしい、温かいものなのだ、というのを理解して。
 
 ぼくの表現の一番根っこにあるものはなんなのか、と、考えるときに、いつもたどり着くのはこの二つの景色で。
 ぼくはこれを勝手に「ポエジーの発生するゼロポイント」と名付けているのだけれど、このことを考える示唆を与えてくれたのは、以下の谷川俊太郎さんの言葉で。


 「『詩』には二つの意味がある。詩作品そのものと、ポエジー、詩情を指す場合です。詩情は詩作品の中にあるだけでなく、言語化できるかどうかもあやしく、定義しにくい。でも、詩情はどんな人の中にも生まれたり、消えたりしている。ある時には絵画に姿を変え、音楽となり、舞踊として現れたりします(中略)ぼくが生まれて初めて詩情を感じたのは、小学校の4年生か5年生くらいのころに隣家のニセアカシアの木に朝日がさしているのを見た時です。生活の中で感じる喜怒哀楽とはまったく違う心の状態になった。美しいと思ったのでしょうが、美しいということばだけで言えるものではなかった。自分と宇宙との関係のようなものを感じたんでしょうね」

 朝日新聞二〇〇九年十一月二五日十三版オピニオン。


 素晴らしい物語を読んだ時、みた時、聞いた時、にも、ぼくの心はそういった次元にまで昇華されていく。
 ぼくの場合、漫画、と、文学、が、その二大巨頭で。
 それからたまにやってくる、前記したような体験、時折起こる、摩訶不思議な経験、どちらにしてもぼくにとっては、ずっとそれらの感情は外来的な、やってくるだけのものだった。
 
 けれど、そうではないということを。
 
 やってくるのを待つだけだった、やってきてもただ通り過ぎるのを眺めているだけだった、ポエジーとは、例えるならば何か水脈のようなものであって、その場所を掘ることによって、その水脈(ポエジー)にぶち当たるまで掘ることによって、絞りだすことができるのだということを、ぼくは書くことによって了解した。
 
 つまりぼくにとって「書く」という行為は、ポエジーにまでたどり着くための掘削作業であり、同時に道具であり、命綱であり、全ての根っこにある、核みたいなものであって。
 それを了解した。
 
 じゃあそれでいいやん。
 書けばええやん。
 なんでわざわざライブすんの?
 
 前回までの項で書いた事柄が外在的な要因だとするならば、今回で書いた事、そして次回で書く事は内在的な要因で。
 
 なぜライブをやめたのか。
 そして、なぜ再びライブを始めたのか。

 ぼくはいま、その思索の道中にいるわけなのであります。

 真っ最中(笑)
 

 (続く)
  1. 2012/09/26(水) 15:41:13|
  2. 基成ラヂオ
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