小島基成の全てのチューニングをポジティブに

小島基成のブログ。

ザ・キヤッチャー・イン・ザ・ライ

確かサリンジャーのキャッチャーインザライだったと思うんだけれど

「誰かがそこから落ちようとしている時、それを掬い上げる誰かが必要だ」

みたいなことが書かれてあって。
と、ここまで書いてみて本当にキャッチャーインザライだったかどうしようもないくらいに気になりだしたので、二階(この文章は一階の書斎で書いてある)の自分の部屋に戻って本棚からキャッチャーインザライを持ってきた。

良かった。
あってた。
が、内容は少し違う。


「僕がそこで何をするかというとさ、誰かその崖から落ちそうになる子どもがいると、かたっぱしからつかまえるんだよ。つまりさ、よく前を見ないで崖の方に走ってくる子どもなんかがいたら、どっからともなく現れて、その子をさっとキャッチするんだ。そういうのを朝から晩までずっとやっている。ライ麦畑のキャッチャー、僕はただそういうものになりたいんだ。」

J.Dサリンジャー/村上春樹訳


野崎孝の訳やとこう。


「僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえることなんだ――つまり、子供たちは走ってるときにどこを通ってるかなんて見やしないだろう。そんなときに僕は、どっちからか、さっととび出して行って、その子をつかまえてやらなきゃならないんだ。一日じゅう、それだけをやればいいんだな。ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ。」




昨日バイトでせっせと缶コーヒーを補充していると棚から缶コーヒーがグラリと落ちてきまして。

「わー落ちる、わー」

と焦ってたらなんのこっちゃない腕の中にスポット収まって。

その時に

「あー俺はこういうのになりたい」

と。

つまりが、誰かを救おう救おうと押しつけるのではなく、その時が来たら自然と向こうから飛び込んでくるような、そんな存在になりたいと。


その為にはきっと、ただそこにあり続けるのが、ただそこにドンと居続けることこそが大事なんやなぁって。


それこそ富士山や海や町のお地蔵さんみたいに。

富士山や海やお地蔵さんは

「君、くたびれているなら私を頼りなさい」

なんてこれっぽっち(ぼくはいま人差し指と親指で小さくこれっぽっちってやってる)も言わないけれど、ただそこにあるというそれだけで、人を助けるともなしに救っている。

そう意味合いでいうと、やはりぼくは野崎孝の訳よりも村上春樹の訳の方が好きで。

「その子をつかまえてやらなきゃならないんだ」

よりも

「その子をさっとキャッチするんだ」

の方がしっくりとくる。

まぁ、あくまでもぼくはだけれど。

それに村上春樹の訳は読んだことあるけれど、野崎孝の訳は全編通して読んだことがないのであんまり偉そうなことは言えない。
うーむ。
ごめんなさいです。

とにかく、

「 I’d just be the catcher in the rye and all.」

ということ。



「ただそこにありつづける」

というのは、小島基成という人間の、小島基成という人間のする表現の、目標みたいなもので。

誰でも彼でも来たいときに来ればええのです。
けれど、現状、誰でも彼でも来たいときに来られると正直まいってしまう。
なので、それは凄く難しいことだけれど、うーん、でもやっぱりそういうものでありたいんだよな。

いま、仮に人を救ったとして。
ぼくはその事に対して優越感や満足感や自意識の充足を覚えるのだと思う。
きっと。
それはその延長線上で「救ってあげた」に繋がって、「救ってあげた」はそのまま「じゃあ何か見返りをくれよ」に繋がるのだと思う。
それは金銭的なもの精神的なもの肉体的なものをば問わず。

ならいっそのこと何もしなければいい。
とは思うのだけれど、やっぱりぼくは、よく前を見ないで崖の方に走ってくる子どもなんかがいたとしたら、どっからともなく現れて、その子をさっとキャッチしたいのです。

抱きしめてあげたいのです。

それから出来ればぼくも抱きしめられたい。


それぞれがそれぞれそういう抱きしめあえるような存在を胸に確と持っていたならば、もう少し生きやすいんじゃないかって思うのだけれども、どうなんだろうか。

少なくともぼくはそう思います。


小島基成という人間や小島基成の書く詩、小島基成&SATの作る音楽が、誰かにとってのそういうものであれば、いいなと思いますのだ。




  1. 2011/07/30(土) 22:08:06|
  2. 日々のこと
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
次のページ